第0話 『万国の門』 キャラバン入隊前
「―――おや。まるで男の子みたいじゃあないか」
宿の部屋の入口をくぐって、実に五日ぶりの対面を果たした男は目を丸くして笑った。
絨毯と大きなクッションの上にだらしなく身を投げ出し、淡い蒼白髪のジンはゆらゆら水煙管をふかしている。
男の背後、石窓の向こうに白い日差しの降り注ぐ町並みが見えた。
賑わう喧騒に紛れて響いてくる音色は、詩人の奏でる異国情緒。
そちらに視線をそらして、自身の腹の底に言い聞かせた――もう彼に、どこに行っていたのかと怒る必要はないのだと。
「ああ、もったいない」
つぶやきに対してわずかに眉を寄せるが、ぐっとこらえて沈黙のまま部屋に踏み込んだ。
彼の驚いたような面白がるような視線が気に障ったが、とりあえず無視を決め込む。
頭が軽くなって、自分では気に入ってるのだから。
部屋に入った勢いのまま自分の荷をまとめていく。
「――旅に、出るから」
「へぇ?」
今度はさして驚いた様子もなく、気まぐれなジンは面白そうに笑って首をかしげて見せた。
もともとそんなに多くない荷は、簡単に詰め終わってしまう。
早く。この決意が揺らがぬうちに、早く。
この交易都市に留まって早ひと月。
自分の養い親となったジンは、宿屋の主人に先払いで二月分ほどの宿代を払っていたと思う。
そう思うとあとひと月分がもったいないとも思ったが、どうせ自分の金ではないのだからと腹をくくった。
ひとつ癪なのは、それが彼の金でもないということだ。
本来の金の持ち主のことを思うと、もったいなくて悔しくて、勝手に散財するジンを憎らしくも思うが、もう構ってはいられない。
もうこれ以上、気まぐれな男の奔放に付き合って入られないと思った。
いつも、待たされて待たされて待たされて。
ひとりで、たったひとりで待たされて。こんな生活を続けて、気付けば一年が経ってしまった。
・・・…別に、もう待つ必要はないのだと、ようやく心に認めたのはつい先日。
「旅って、ひとりで?どこへ行くんだい?」
「キャラバンに入る」
「キャラバン?」
このひと月、何度も同じ天幕の前を通った。
偶然見かけた白い天幕。こっそりと中を覗き込んだりもした。
中にいた人に声をかけられそうになったら、慌てて逃げてしまったけれど。
別に逃げることはなかったのだが、声をかけられてもなんと答えて良いかきっと分からない。
その度に公共の水場で咽を潤して、行き交う人の波を眺めながら自分に出来ることを考えた。
とっさに思い浮かんだのは、ふたつ。
ひとつはただの憧れでしかなく、もうひとつも、生業とするには悔しいが自分はまだ子供過ぎると思った。
それでも、このままずっと立ち止まっているわけにはいかないと、心の底ではずっと分かっていた。
何かしなきゃ。――ひとりでも、生きていけるようにならなければ。
もう、帰る場所はないのだ。
決意を固めてからは早かった。ちょうど、大切な人を失って一年目の今日、踏み出そうと決めた。
あの人が大好きだった髪を切った。一年分、ずるずる伸ばしていた髪は、これからの自分にもう必要ないと思ったから売り払ってしまった。―――おかげで僅かながら小金を手に入れることも出来た。
「これ、もらってく」
まだ馴染めない重みのある短刀を腰帯に挟み込み、一応断りを入れた。
目の前の男は物に執着を示さない奴だから、とくに問題はないと分かっている。
でもそれは自分たちにとって大切な人の残したものだったから、
何か反応があるかと少し期待したが、視界の片隅のジンはぷわりとひとつおおきな煙を吐き出しただけだった。
最後に手に親しんだ棍棒を携えて、ひとつ深呼吸をする。
「トラーダ」
絨毯に寝そべる相手に向き直ると、よく顔も見ないままに頭を下げた。
「お世話に、なりました」
別に奴に世話をしてもらった覚えは……ないけれど。
でもこれはけじめ。だって、どれだけの時を共に過ごしたのか。
大切な人と共にすごした愛しい日々には、もう還れない。
目じりが熱いのは気のせいだ。胸が痛いのは無視だ。
ぐっと唇をかんで身を翻す。
予想通り、引き止める声は掛からなかった。
*** *** ***
「・・・・・・・・・キャラバン、ねぇ」
絨毯に寝そべって水煙管をふかしながら、ジンは小さく呟いた。
少女の出て行った出口を見る。
それから目を閉じて、耳を澄ます。
せわしなく揺れる水の音。
ああ、そんなに走らないで・・・ちゃんと前を見ているの?
再び目を開けて、石窓から太陽を見上げた。
今日もとても暑そうだ。
できれば一所、もしできれば水潤うオアシスで、のんびり暮らしたいものだけれど。
砂漠を渡るのはいつだってきついもので、いつか自分は太陽の熱に焼かれて涸れてしまうかもしれないなぁと思いつつ。
それでも、口元が緩むのは何故だろう?
―――ああ、やっと動き出した。
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キャラバン入隊前の一幕・・・結局投稿せずに終わったもの(苦笑
トアーラの現在の養い親は水のジン。
元は二人いたけど、もうひとりは1年前に他界。
以来二人で、残された財産を使いあてもなく旅を続けていた模様。
気まぐれなジンは傷心のトアーラを連れてあっちへふらふらこっちへふらふら。
トアーラの耳飾りは彼からの贈り(?)物。
実はそれとなく術がかけてあって、キャラバンに入ったトアーラの様子をそれとなく感じることができる模様。
何の意図があってかキャラバンの後を付かず離れず追っかけてるけど、今後自身もキャラバンに入隊するかは未定。
◆トアーラ過去メモ
トアーラの養い親と彼女自身の本名は3人とも同じ。
水のジンの「トーアラーダ」
今は亡きジーニーの「トーアラーダ」
人の子の「トーアラーダ」
ジンの彼が自分の名を二人の短命種に与えたのだけれど、
ややこしいのでジーニーと人間のトーアラーダは
ジンを「トラーダ」
ジーニーを「トーア」
人の子を「トアーラ」と呼び分けていた。
ちなみに「トラーダ」はジーニーを「トーア」
トアーラのことを「小さなトーア」と呼ぶ。
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